となりの八朔の実は青い

となりの芝生が青くなくとも、そこに生る八朔の実というものは青く見えるはずさ。自分でも何言ってるかはわかんねえっす。

胡蝶之夢

なぜ生きているのかを考えるにあたって、生と死を考える必要がある。そんでもって、生と死を考えるにあたって、とても重要なものが胡蝶の夢というもの。まあ端折って言えば「一匹の蝶が夢を見ました。人として一生を全うする夢です。人としての死を迎えると、蝶は夢から覚めます。その蝶って、人なのか蝶なのかこれもうわかんねえな」というものです。端折ってないな。


昔々あるところに中二病を発症した少年がいました。その少年はノートに日記をつけました。コンセプトは中二病の自分を未来の自分が思い出せる日記。自覚してるんかい。

まあその少年って僕なんですけど、ふとそのノートを片付けついでにペラペラめくってたら面白いことが書いてあったんですよね。それが、胡蝶の夢から連想した、「自分たちは生きているのではなく、今まさに死んでいるのでは?」という仮説でした。


面白いこと描くなあって思いました。一応僕も年をとりまして、まだまだ文豪殿には遠く及ばぬ程度ではありますが語彙力も高まって、様々なことを様々な言葉で彩れるようになりました。でも、なんだかこういう考え方ができるのってすごい若いうちだけで、それのピークがもしかしたら中学2年あたりなのかもなあって。あんましあの頃の自分と変わってないような気がするなあって思ってたのですが、思考の柔軟さが全く違うんですよね。

いつの間にか書く時に考えてることがどうしたら面白いかな?ではなく、どうしたら文章のミスがなくなるかな?になってきてて、ああなんだろう、書くことに対してのスタンスが根本から変わっちゃったんだなあと深く実感したわけですよ。




過去の自分の考えだと、「今まさに私たちは死んでいて、この世界で死ぬことで生者として生きている世界線の夢から覚める」ということだそうです。私たちは死んでいるというのは、あっちの世界線の自分は夢を見ていて魂がそこにはないって事で、死んでるというよりは魂が抜けてるって表現の方が正しそうね。



今の自分がまっさらな状態で生と死に考えたらこんなことは思わないだろうなあ、いろいろ無理がある仮説だけど、無理があるからこそ面白いし、若いからこそ無理がある仮説を立てられるんだろうなあ、とふと思わされたお話です。