となりの八朔の実は青い

となりの芝生が青くなくとも、そこに生る八朔の実というものは青く見えるはずさ。自分でも何言ってるかはわかんねえっす。

手間は手間だけど手間だから手間なんだよな

諸君、私はトーストが好きだ。


うんたらかんたら、略奪が好きだなんだと演説する気はないが、何は無くとも私はトーストが好きである。アツアツのトーストにバターなりマーガリンなりを塗って、それがとろけた頃合に食べるのがたまらなく美味い。こだわりがあって、マーガリンなりバターなりがトーストに染み込んだものが1番好きだが、それはともかくとしてトーストが好きだ。



そんなわけで今日もトーストを食べていたんだけども、ふと思った。(こいついつもふと思ってんな)


トーストって二度手間じゃないか?


もとよりパンは酵母くんを発酵させ、アツアツに焼き上げたものであって、市販されている食パンだって例外ではない。もちろんアツアツで売れば袋の中で菌が異常に増えちゃうので常温管理で売られてるけど、完成したてのホヤホヤの時はアツアツだったはずだ。


何が言いたいのかといえば、食パンを買って、それをまた焼くってすごく手間な気がするのだ。


というか、トーストってただ焼きすぎて焦げたパン一歩手前みたいな料理じゃん!とマイナスな思いつきまでしてしまったのだが、実際そんなものなのかもしれない。製パン会社がシステムトラブルで少し焼きすぎて焦げめが付いたパンを工場直売所で売ればそれはトーストの商品化だろう。



聞けば、鰻も4度、5度と焼くごとに味の深みが増すらしい。なんて手間だ。タレをつけ焼きまたタレをつけ焼きまたタレをつけ……をひたすら繰り返す。職人の美味いものへの姿勢がうかがえる真摯な工程である。





つまるところ、「手間は完成度に直結する」ということなのだろう。何度も焼けばいいが、焼きすぎは良くない。そこの見極めすらも、ひとつの手間だ。


ならば、どんなものでもひたすら手間を加えれば美味くなる、品質が向上するのだろうか?


そんなことはないはずだ。さっきも言ったが、焼き過ぎれば手間は水の泡と化すし、1合ぶん水を多くして炊いた米にどれだけふりかけをかけてもその米がベチャベチャであることに変わりはないだろう。適切な判断と方法が、最大かつ最良の手間なのである。ベチャベチャな米は炒めるなり粥にするなりすればそれは正しい手間と呼べるかもしれない。



しかし、こんな言葉もある。「完璧を目指すより、まず終わらせろ」。

そもそも適切な判断と方法による手間を行える人間は、まず終わらせることができる。その時点で、その品は品質の高いものであるはずだ。

手間を加えて100%の高品質なものを生める人は、手間を加えていない90%のものを作らせてもその時点で良いものを作っているはずなのではないか。

もちろん、手間を加える専門家ってものもあるだろうし、一概にそうとは言えないだろうが、そんな人間になれたら、とんでもなく幸せで、作り手としてこれほど誇りになることもなかろうよ。



コーヒー片手にもう片手でトーストを齧りながら、なんとなく思った立ち食いの午後だった。