となりの八朔の実は青い

となりの芝生が青くなくとも、そこに生る八朔の実というものは青く見えるはずさ。自分でも何言ってるかはわかんねえっす。

隣の八朔の実は青い

 作品タイトルが話タイトルになるのって、最終回によくあるよね。

 

まあ最終回じゃないんですけど。

 

 

 

4月も尻すぼみな感じで去っていくこの頃。やっとのこさ新生活にも慣れてきて、原付で片道40分くらいの道をただひたすら走り続ける朝と夜、windows10の誤変換にイラっとしたり、資格勉強とITストラテジーに忙殺され、ブックオフにバイトの戸籍を入れ、ブランド品を掃除したり陳列したりする毎日を送っている。

 

つい最近はブランド品とも言えないようなアクセサリを磨いて出したりもしているのだが、なんか発見があって面白かったりする。ケットシーがつけてそうな美しいピアスが売価税込み300円だったりした。なんてこったい。参考資料としてほしいくらいだわ

 

 

 

 

 

私の友人はなかなかどころかめちゃんこ優秀で、特に仲が良かったふたりは片方が超優良ホワイト企業に就職し、片方が自衛隊に入隊した。さらっと書いたがすごくねこれ。

 

 

 

そんな中、私はひーこら言いながら毎日パソコンに向かいながら勉強しているわけだが、彼らがとんでもなく高いところに上ったような気がしたのだ。

 

 

当然俺も負けじといい企業に就くことを目標に生きていくわけだが、成功者、ないしは成功者への第一歩をさっくりと踏み出した彼らに、なんともうらやましさを感じるわけだ。700日オーバーのアドバンテージはでかい。彼らに追い付くには、相当な時間がかかりそうだ。

 

 

 

ああ、これが隣の八朔果樹園は青いってやつか。

 

 

生きていると、この世に存在する言葉の意味を肌で感じることが多々ある。形容詞であれ、四字熟語であれ、慣用句であれ。

 

 

 

先人切って社会人となった彼らが教えてくれたのはなんだろうか。最近思ったのだ。学生生活に身をゆだねることにしたのは自分自身だが、高校のころの成績を振りかざせば、それなりなところに就職できたかもしれない。何を思っても過ぎたものは変わらない。後の祭りってやつだが、分岐する運命というものが、私はたいへん好きなのである。

 

私は保育園生のころ考えていたことがある。今の自分の考えにも通ずる重大なことだ。

 

 

『仮にタイムスリップが可能で、二つに一つの道を選んだ時に戻り、その時とは異なる道を選んだ時、「タイムスリップしてから選んだ結果」と「純粋にその時の自分がその道を選んでいた結果」は本当に同じなのだろうか?』というものだ。当然、幼い自分がこんな風に小難しく考えていたわけではなく、ただ純粋にタイムスリップって必ず同じ結果になるのかなと思っていただけなんだけども。

 

ようは、選択肢そのものは変わらずとも、その時その自分でしか得られなかった結果というものが選択の先にはあると思うのだ。仮に企業に就職し「やっぱり専門に行きたい」と高校の進路選択の時に戻り、選択をやり直したとしても、今この時こんなブログを書いているような自分が得られるという確証はないのではないか、ということだ。

 

自分が選んだ道というものは、もう起こりえないようなかけがえないものなのだ、となんとなく考えながら思った。一つ一つの要素が、気持ち悪いぐらいに絡み合うのが選択というものだ。今後も、選択は重要にせねばならないな。

 

 

 

 

 

 

 

隣の芝生を青くしてくれた友人に感謝感激雨あられである。

八朔果樹園の明日を願って、またこんど!